どんなに願っても叶わない想いがある。
普通に暮らしたい。たったそれだけ・・・。
gravity 2
この店に来る客は変わっているというよりも、まともな[客]は居ない。
それはこの店のオーナーも雇われているバーテンダーも真っ当な人間では無いという証明に他ならない。
開店は深夜。わずか数時間。
この時間に店が開いていることに気付き入ってくる一般人なんて居る訳がない。
様するに、ここはそう言う店だ。
「今日は[客]が来る。」オーナーから昼間連絡があったので店を開けた。
必ず開店と同時に現れるはずのオーナーが現れなかった。
(何かあったか。)
グラスを磨きながら、オーディオのスイッチを入れ、気に入りのジャズを流す。
本職は別にある。バーテンは仮の姿。
とはいえ、[客]は本物だと思っているから手は抜けない。
完璧にバーテンを演じきる。そのためにどれ程の訓練をさせられたか。
(お陰で今すぐに仕事を追われてもバーテンでも喰って行けるな。)
いつの間にかそれ程の腕を身に付けていた。
(仕事を辞めても、生きていたらの話だが。)
そんなことをツラツラと考えていたら扉の外に人の気配を感じた。
重いドアがわずかに軋む音と共に現れたのはスーツの男。
(違う。)
オーナーではない。[客]でもない。男の雰囲気と私の感がそう告げている。
その男は腕時計を指しながら「まだ大丈夫か?」と聞いた。
閉めろとも言われてなければ閉店の時間でもない。が、本来であれば断っていただろう。
この店は会員制ではないがごく普通に社会生活を営む人間の為に開放されていい店ではない。
店ではないが・・・・・。
「どうぞ。」
と男を店に迎え入れた。恐らく、今夜はオーナーも[客]も現れまい。
(せっかく開けたんだ。普通のバーの真似事をしてみてもいいだろう。)
男を見た瞬間、何故か不思議とそんな気になった。
男は物怖じもせずカウンターに進みスツールに浅く腰掛けた。
恐らく普通の男だ。アルコール臭がするのはどこかで酒を飲んだ後だからだ。
飲み会帰りの会社員。そんな風体だった。
(面白い。)
仮初のバーテン姿を一般人に試してみるのも悪くない。イタズラ心と言うよりは遊び心。
普段、接することが無い人種に通じるのか試してみたくなった。ただそれだけだ。
「ダイキリ」
オーダーを頼む声は一言。滑舌も良く、煩くもなく耳に馴染む、魅力的な声だと思った。
初見の店に入った時特有の少し緊張感と、早くも店に馴染み始めたくつろいだ雰囲気を併せた男の表情。
スーツはそう高いものではないが安物でもなく、仕立て良く男の体に添っている。
グラスを待つ間カウンター上に軽くのせられた手は厚みがあり、スラリと長い指の爪は短く整えられていた。
私の所作を見つめる目元は真剣だが、プレッシャーを感じさせぬ程度に時折視線を反らされる。
差し出したグラスを口元に寄せ、一口味わって感嘆の声を洩らした男は笑顔で「美味い。」といった。
挨拶程度の軽い会話。それから一気に残りを煽る。
カクテルも鮮度が命。特に新鮮な果物を使ったものは味が良い分、香りが抜けるのも早い。
グラスに注がれ、客に供されたその時が最高なのだ。と言う事を彼は経験で知っているのだろう。
男の望むままに会話を重ねる。
必要以上にお互いを探らない、探らせない。
ただのサラリーマンだと笑うが彼の仕草や視線の運び、間の取り方に時折何かが私の感に触れる。が、一瞬で消えていく。
彼の職業が嘘だとしてもそれは他愛無いもの。彼は[客]では無いのだから。
「ごちそーさん。美味かったぜ。」
と一万円札を一枚カウンターに置くと此方の返事も待たずにするりと店を出て行ってしまった。
男の持つ気負うことなく場を楽しむ慣れた雰囲気と心憎い潔さは、きっと他所の店でも好ましい客として持て成されているだろう。
「金を払って貰えるなんてな。」
思わずほくそ笑む。
彼はこの店で金を払い酒を楽しんだ、私にとってもバーテンとしての初めての客になった。
店にある調度品もグラス、酒、果物、氷に至るまで。オーナーの意向で全てが一流品で高級品だ。
しかし長く置かれているというだけで封も切らずに捨てられる酒や食品も多い。
オーナーと[客]の望むままに供される酒には勘定書きというものは存在しない。
一般的な商業活動には遠く距離を隔てているが、この店が持つ本当の意味は「それ」ではないからオーナーも気にはしない。
全てがオーナーに拠って賄われている。
もちろん、私が彼に供したカクテルにも値段はない。
けれど(貰い過ぎだ。)と思う。
二つ折にされた札を指で挟み繁々と見つめながら(せめて半分返せたらな。)埒もなくそんな事を考えた。
(不可能だ。男と遇うことはない。)
恐らく明日になればこの店は跡形もなく消え去る。
連絡が無く、オーナーが来ないと言う事はそういう事だ。