偶然の出会い。
惹かれあう重力。
gravity
「bar silver_moon」
店は大通りに面した路地の中ほどにあった。
近所に引っ越してきて、もう二年程になるが、人が出入りする姿を見たことはない。
流行っていないのは一目瞭然だったが、商売する気があるのか?ないのか?何より看板がなかった。
俺がこの店の名を知ったのは扉に控えめにそう書かれていたからだ。
辛うじて営業しているらしいことを知ったのはつい最近のことだ。
会社の飲み会で帰りが深夜の2時だか3時だったか記憶もいい加減な金曜日。
(いや、日付が変わってるから正確には土曜か?)
扉の横にあった小さなランプ風の洒落た外灯に薄暗く明かりが燈っていた。
「へぇ。この店やってんだな。」
なんとなく興味を覚えた俺はそっと重そうな木の扉に手をかけた。
わずかに軋むような小さな音色。
カウンターだけの店内は予想通りに薄暗く、客の座る手元にだけスポットが当たるように配された明かりが導きの灯のように客を止まり木へと誘う。
静かな中に会話を邪魔せぬ程度に絶妙に音量を下げられた(曲名は知らないが聞いたことがある)ジャズが流れている。
「いらっしゃいませ。」
落ち着きのある低いめの声がカウンターの内から響いて当然ながら誰か居たのだと気付く。
「まだ、大丈夫か(時間)?」と腕時計を軽く掲げてみせると
「どうぞ。」と男は俺をカウンター中ほどの席へと手の平で指し示す。
スツールに浅く腰掛け、渡されるままに程よく温かいお絞りを受け取ると、節くれだってはいるが綺麗な手がコースターを一枚音もなく滑り置く。
「何になさいますか?」
一息置いて絶妙なタイミングで声が掛かる。
「ダイキリ。」
俺は何処のバーに入っても最初の一杯はコレに決めている。昔付き合っていた年上の女に教わったのだ。
「ダイキリを巧く作れるバーテンダーが居る店は良いバーなのよ。」と。
彼女の言った意味が解った頃、一方的に別れを告げられたけど何となくそれは習慣として残った。
「かしこまりました。」
店内の暗さに目が慣れてくるとカウンター内に立つ男に視線をやる。
男は流れるような手つきで氷をクラッシュし、ライムを搾り、ホワイトラムと砂糖を計り入れる。
シェーカが振られる音が小気味良く店内に響く。
ダイキリが冷やされたカクテルグラスに最後の一滴まで注がれていく。
シェーカの中に取り残された氷がカラカラと音を立てた。
「お待たせいたしました。」
と僅かに口元に笑みを浮かべコースターごと、すっとグラスが手元へと押し出され、間を措かずにチャームが添えられる。
フレッシュなライムが効いて爽やかな味わいは酒の強さのみを強調することなく、後口は砂糖のザラツキもなく文句なしに美味しかった。
俺好みの味でもあった。さんざん飲まされて酔いの回った舌に心地良い感覚が蘇ってくる。
「美味い。」素直に出た一言に彼はそっと笑顔で軽く会釈を返してきた。
一連の作業を卒なくこなす姿は風格さえ漂っている。
しかし、見た感じは自分と左程変わらぬ年かさに思えて、俺は男に少し興味を抱いた。
じっと見つめる不躾な酔っ払いの俺の視線にも動じない男は美しい顔をしていた。
男に美しいと評するのはどうかと思うが、白い肌に整えられた髪は黒。切れ長の目と長い睫毛、淡い色の薄い唇。細い顎と首筋。
「あんた。キレイだな。」
「そうですか?」
「女なら速攻口説いてる。」
「残念ながら。」
「だよな。俺も男に興味はねぇよ。」
「それは奇遇ですね。」
言われ慣れているのだろうか?酔っ払いのあしらいも手馴れたものだ。
くっと一息に飲み干して「お任せで。」とオーダーする。
タンブラーに氷を少し、チェーサーを注ぎもう一枚コースタを取り出し乗せる。
返す手で空いたグラスを引く、滑らかな動線。
「随分お飲みのようですね。」
「あぁ。飲んできた。」
「ベースのお好みはございますか?」
「あんたは何が好きなんだ?」
「そうですね。・・・ジンでしょうか。」
「じゃ。それで。」
「飲み口は如何いたしましょう?」
「辛口。」
「先ほどのライムはお気に召したようですが、フルーツは如何いたしますか?」
「好きに。」
「承知いたしました。」
再び男がシェーカを振るう。姿勢の良い立ち姿は映画にでも出てきそうな程、存在感を漂わせる。
店に入って来た時の影に溶けこんだあの感じは微塵も無い。伝説のバーテンと言われても今の俺なら多分信じる。
もう少し声を聞いていたくなって会話を続ける。
「板についたモンだ。長いのか?」
「5年になります。」
5年か。勤めて5年という意味なら、高卒で23、専門出で25って所だが、若い男にそう簡単に出せる落ち着きではないだろうに。
大卒なら27。最近は大卒転職組バーテンダーも珍しくはないから意外に年上かもしれない。
俺の意図を察してか男は手際よく仕事をこなしながら、話の相手をしてくれた。
「お客様は何をされている方かお聞きしても?」
「しがないリーマン。」
「そうは見えませんね。」
「どう。見える?」
「さぁ。ここにお出でになる方は少し変わった方が多いですから。」
「なんで?」
「目立ちませんし。」
「確かに。」
「開くか開かぬかは気分次第の店ですから。」
「なるほど。そりゃよっぽど運が良かった・・・」
「・・・逆かも・・・知れませんよ。」
一息間を置いて答えられた言葉に、俺はわずかに眉根を寄せる。
「どっちでも構やしねぇさ。」
「やはり変わっていらっしゃる。」
ふっとバーテンダーが声を立てずに笑い、新しいカクテルが音もなく差し出される。
「シルバームーン。当店のオリジナルでございます。」
透明に近い銀白色の液体を口元に運ぶとほのかに柑橘系の香りが鼻先をくすぐる。
一口味わってから一気に飲み干す。
やはりそれも美味かった。
「静かな時間と美味い酒。これ以上の贅沢は望めねぇ。」
「お気に召して幸いでございます。」
「ごちそーさん。美味かったぜ。」
財布から一枚札を取ると軽く二つに折ってカウンターに置き、そのまま店を出て、余韻に浸りながら部屋へと足を運ぶ。
明日からはまた退屈な日常が待っている。
不思議な店だったが良い店だ。次に訪れた時に彼が居るとは限らないが、開いてたら訪れてみるか。
そんなことを考えながら俺は眠りについた。