私は予定を繰り上げる事にした。

もう少し…あの子がここの環境にも馴染み、少しでも落ち着きを取り戻したならと、そう思っていたのだが。

このまま自分の傍にあの子を置いておける自信がなくなったのだ。

 

あれから頻繁に、あの声が私の頭の中で木霊する。

あの子は「仇」の子なのだと。幼いとはいえ、その身体にはあの忌まわしき血が流れているのだと。

…声がする。

 

『殺せ。殺せ。…』と、頭の中でその言葉がひっきりなしに回る。

 

眠っても夢見が悪く身体が休まらないず、頭が割れるように痛い…。

これは私のヒトに対する恨みがそうさせているのか、それとも「扉」をくぐる事さえ拒絶した、不慮の死を遂げた同僚達の激しい

魂の叫びなのか。

………私からすればどちらも同じ事なのだが。

 

だが、私の良心のかけらがその声を拒絶する。

一度でも子を持ってしまった性なのか。小さい命の火を消す事を、頭で考えるより先に、胸の奥の、更に奥のところで何かが

拒絶している。

その葛藤が辛過ぎて…音を上げてしまいそうだった。

 

 

出来るだけ早く、人里のある陸地へ行こう。海に繋がる洞穴へ仕舞いこんであった小船が役に立つ。

少し前の嵐のときに見つけた、小さいが帆がついた船だ。一応マストも痛んではいないし、ヒトの集落のある陸地まで行くには十分だ。

 

私も若い頃は好奇心からヒトの町へ人間観察に出かけたこともあったから、ヒトとの交流方法をまるっきり知らない訳ではなかった。

今でも時々生活に必要なものを調達しに行く事もある。

自己都合からヒトの姿をしてはいるが、皮肉なものでヒトは憎くても、この姿であるという事はそれなりにヒトらしい生活は必要になる

ものなのだ。その為に私の様な者でも彼らのもとへ物資を調達に行く事もある。

それに、この姿をしていればこそ、彼らも私を竜などとは思いもよらず、彼らに狙われることも少なくて済んできたのだろ。

重ね重ね皮肉なものだ…。

もっとも、私の正体を知ったものは今まで生かして陸に上げた事などないのだから、この海に「竜」が居る事を知る者は居ないはずだ。

 

 

小船を洞穴から引き出し、砂浜へ移動させ、以前から溜めておいた装飾品に使われるという貝殻やパールなど、物や食料と

交換できそうなものを積み込む。あとは魚を少し確保すれば十分に事足りるだろう。

 

催促もしないのに、物好きなイルカ達が今日も浜辺に遊びに来ていて、子供と戯れている。どうやらあの子は気に入られているらしい。

そうやて来てくれた連中には悪いが、それも今日だけの事だ。明日の明け方に間に合うよう、今夜中にこの子はこの島を

離れる事になるのだから。

 

昼過ぎになっても疲れを知らないかのように、未だにイルカと戯れているその子の姿を確かめ、私は少し大きな魚を求めて沖の方まで

出かけることにした。憂鬱な気分を引きずったまま…。

 

今思えばこの時一言あの子に声をかけていれば、あんな事にはならなかったかもしれない。

 

 

思う獲物がなかなか見当たらず、ことの他時間が掛かってしまった。

獲物を仕留めて浜に戻ってきた時には既に少し日は傾き始めていて、さすがにもう浜にイルカの姿もあの子の姿もなく、辺りは

静かなものだった。あの子は小屋に戻ったのだろうか?

仕留めた獲物は保管の為、洞穴の一番涼しいところへ運び込み、その足で小屋へと向かう。しかし、小屋の中にもその周囲にも

あの子の姿は見当たらなかった。小屋から 少し離れた真水を汲む場所まで行ってみるが、そこにも姿はない。

…嫌な感じがする。

あの子の姿が見当たらない。ただそれだけのことが、何故か私を異様に不安にさせた。

今まであの子をつれて歩いた場所を闇雲に探す。普段は小さく思えるこの島が、この時ばかりはやたら広く感じられて更に不安を

煽られる。

 

あの子にもしもの事があったら…?

 

何故、こんなにも焦らされるのか。

何故、こんなにも冷静になれないのか。

何故…こんなにもあの子の事が心配で堪らないのか。

 

そうだ、これはあの子を助けてしまった私の責任感だ。

 

そう自分に言い聞かせてみたものの…何故かその自分の言葉がしっくり来ない。

どうしてだだろうか。それが自分でも妙に嘘臭く感じた。

 

――放ッテオケ。

 

また、あの声が頭の中に響く。

そうだ、放っておけばいい。

私が身を隠してしまいさえすれば。

あの子はこの島の中でも生きられずに。

 

私が殺すまでもない……

あの子を探して急いていた私の足が急速にその勢いを失う。

 

その通りだ。私が何故?あの子を探さねばならない?

その場に立ちつくし、空を見上げる。既に日は水平線に沈み、西の空を赤く染めていた。

もう直ぐ夜だ。冷え込んでくるだろう…。

そして、今度は止まってしまった自分の足元へ視線を落とす。

なんともやるせないく情けない気分だけが私を捕りまき、見えない網にでも掛かったように私は動く事も出来なかった。

 

…私もたかがこの程度か。あんなに憎く思い、蔑んでいた「ヒト」共と何ら変わらない。…内側は卑怯で醜い……。

止まったまま、前へ進もうとはしない私の脚。まるであの時止まってしまったままの「私の時間」のようにすら感じた。

 

……私は………変わらなくていい。このままでいい。

……このまま独りでいい……。

 

暫らくそうやって一人、足元に視線を落としたままじっとしていた時だった。

かすかに私の耳に声が届いてきた。…イルカ達の声だ。弾かれるように声の方へ身体を向ける。

何故か私は自分が呼ばれているような気がして、そこから一番近い海辺へと向かっていた。ここなら急勾配の磯が一番近い。

そこは潮が退いていれば浜からでも歩いてこれる場所だが、一度潮が満ちだすと岸伝いに戻るのは難しい。そう言えば今は満潮も

近い。

 

…まさか、もしかしたら…

 

イルカ達の声に触発されて、我を忘れて海岸へ向かう。

 

「…ュ……ィ…」

 

無意識に言葉が口から零れ出ていた。

それがあの子のナマエだとは多分その時は自覚していなかったと思う…

 

「…ユーイ……ユーイっ!」

 

夢中でその言葉を叫んでいた。

 

そして、その声に応えるように、イルカとは別の声がした。

はっきりと、それはあの子が私を呼ぶ声だった。小さなその声が何故か私の耳に痛いほど響く。

急いで崖を駆け下りる。海に突き出した岩場を少し回ったところに…その姿があった。

見るからに不安定な格好で岩場にしがみ付いて。その泣き腫らした瞳が私の姿を見つけて更に揺れる。

そしてその周りで3匹のイルカ達が独特の声で私を呼びながら水面に顔を出していた。

 

「リュシー…リュシーっ!」

 

何度も何度もナマエを呼ばれ、その声に弾かれるように、その子の傍に駆け寄る。

 

「リュシィーっ!!」

 

近寄った私の身体に、その身を投げ出すようにすがり付いてきた小さな身体。

私の身体に押し付けられた顔。潮風と砂でざらついた髪。小さな手が私の服を握り締めている…。

 

……暖かい……

 

潮風で少し冷えてはいたが、その小さくぬくもりのある細い身体を、私は両腕で抱きしめていた。

なんなんだろうか…この安堵感は……。

どうして私はこの子の無事を確かめて、こんなに安心してる…?

納得がいかない…

でも、その子を抱きしめたその感触から離れられなず、私は暫らく動く事も出来ずに、ただそのぬくもりを感じていた。

 

 

 

 

 

初めて呼んだ、ナマエ…

その言葉を口にしてみて、ナマエとは特別なものなのだと初めて知る。

それは私にとっては魔法の言葉だった。不思議な言葉…「ナマエ」。

…そしてあの子をナマエで呼んでしまったことを、私は後悔せざるを得なかった。

 

もう既に、私にとってあの子はただの「ヒトの子」ではなくなっていたのだ。

そのことをあの子を抱きしめてみて嫌でも自覚させられた。

 

あの子が私にナマエをつけるということも、恐らくは特別な事だったに違いない。

そう考えれば、あの子がやたら私を慕ってきた事にも納得がいく。

…今更だが、それを許してしまった事がいけなかったのか…。

 

息子や妻を亡くしてから、既に100年近い時が過ぎようとしている。

その時から私はヒトを恨み。独りになった。

長い時を生きる我ら竜族だが、それでも他の生き物達と、おそらく時間を感じる速度が変わるとは思えない。

ただ、長い命。それだけだ。

独りで過ごした100年近い時は…私には長すぎたのかもしれない。相手がたかが「ヒト」の子供でも、懐かれれば拒絶し切きれないのが

何よりの証しだ。

 

……だが、そんな軽はずみな思いは断たなければ。私にも、あの子にも、いい事など何一つあるはずがない。

 

私は竜だ。ヒトの子と一緒には生きられない。

何より寿命がちがう。あの子が成長するにつれ、いずれヒトほど歳をとらない私の正体を知ることになるだろう。そうなれば、

やはり一緒に過ごしていけるわけはない。

 

もし、私の正体を知ったなら、あの子はどんな反応を示すだろうか?

自分が同族として親しみを持っていたその人物が、実は自分とは全く違う巨大な生き物だと知ったなら。恐らくその瞳には、

私が醜い生き物に映るのだろう。

裏切られたとさえ思うかもしれない。

 

 

空には月はない。

星明りの微かな視界の中、眠ているユーイを舟に乗せ、私は島を離れた。

 

 

 

 

 

夜明けまでに町につき、そのまま市が開けるまで私も舟の上でユーイを抱いて眠った。

 

市が開けてみると、久しぶりの町は思った以上に活気があった。以前よりヒトが多くなっている。

その分、町の外れは少し荒んだようにも見えなくもなかったが…。

 

市場で交換できる物は交換し、必要なものを揃える。必要以上なものは「貨幣」に替え、別の店などを回ることにした。

天然のパールやその貝は比較的高く取引される。それでもまとめて交換可能な相手を探し、交渉する。

 

「なんだ、傷が多いな。」

「傷のない天然ものなどあるものか。この辺りでこの大きさのものはそうない。」

「そうは言うが、この傷。大きくないか?」

「不満なら他所をあたる。」

「あー…わかった。ならこれでどうだ?」

 

こっちの顔色を覗いながら、男が指を3本立てて見せる。

それに対して5本の指を立ててみせる。

 

「あんた強気だなぁ、こんな田舎でそんだけ出せる奴なんかいねぇよ!」

「なら、いくらまでなら出せる?」

「俺じゃせいぜいここまでだ。」

 

そう言ってその男は私の指を一本折り、そしてもう一本は半分に曲げて見せた。

 

「3半ってとこだな…」

「いいだろう。その代わりまとめて買い取ってくれ。」

「…しょうがねぇな。そっちの魚、それもつけてくれりゃいいぜ。」

 

そう言って男が指差したのは、市場でも売れ残った小魚が少々入った網だった。

屑同然にしか取引されないと言われ、魚達にも悪いので持って帰る事にしていたが…

 

「うちのおっかーが喜ぶ。晩メシ用にそれをつけてくれや。」

 

無駄にならないのならと思い私は網の中身もその男に渡してやった。

そんな市場でのやり取りの間中、ユーイは私の服の裾を握りしめ、ただ黙って私の後をついてきていた。

少しも私の傍を離れる様子がない。

もっと好奇心旺盛にはしゃぎまわるかと思っていたが…

今日はいつもより元気がないように見える。何かに怯えているような、不安気な。同族の中に居るというのに、この子は何故こんな顔を

するのだろうか。

 

このままでは計画を実行に移すのは難しい…

 

「ところで…」

「あん?あんたまだ居たのか。」

 

小魚も持っていったさっきの男に再び声をかける。

 

「エホンってのはこの町でも手に入るのか?」

「絵本!?あんな高価なもん………ああ、でもあるかもしれんなぁ。」

 

そう言って男は思い当たる店を教えてくれた。

昔は海産物意外殆ど取引されるものなどなかったこの町だが、最近では人の出入りも多くなり色んなものが手に入るように

なったのだという。

 

男に教えられた店まで行き。

そしてユーイに店の外で待つように言う。

 

「ここでまってろ。いいな?」

「………」

 

返事はなかった。

それでもしぶしぶその手を私の服から離してくれた。しかし、俯きかげんのユーイに上目使いで不満の表情を向けられる。

ここにはお前の同族たちが居る。…お前にはここの方が私の傍より遥かに安全なんだ。

幼いお前にはまだ分からないかもしれない。いや、私の正体を知らないのだから分からなくて当然か…

何故か私はこの子を裏切るような気がして後ろ髪をひかれている。だが、これは裏切りなんかではない。

この子が育った元の世界に戻すだけの事だ。

 

入った店には一冊だけエホンがあった。古く、表紙もかなり痛んだものだったが、その分、貝等を取引した額でも買えそうだ。

私はヒトの文字は読むことが出来ないので、ある程度内容を店主に教えてもらう。

それはまさにあの子の言っていたエホンらしいものだった。

 

出てくる人物は竜を退治するドラグーン「ユーイラル」と山の竜「リュシルス」。

昔ある山にリュシルスという陸の竜が居た。リュシルスは酷く気性が荒く近くの町のヒト達を困らせていた。

そこへ現れるのが国で最強と言われたドラグーン・ユーイラル。ユーイラルとリュシルスは三日三晩戦いつづけ、そして最後に

勝ったのはユーイラル。しかしその後、その戦いの傷が元でユーイラルも死んでしまう。

町の人たちはユーイラルを称え、彼は語り継がれる存在となった。

 

そんな内容のものだった。

ユーイラル…ね。あの子のナマエと似てるんだな。

そして私はあの子に似たナマエのドラグーンに殺された竜と同じナマエなわけか。

…それもいいだろう。

 

私はそのエホンを買い求め、そして外で待っていたユーイに手渡した。

その本に見覚えがあったのか、ユーイはそのエホンを見るなり表情を明るくさせた。思えば、今日始めてみるユーイの笑顔だった。

そのエホンをユーイは胸はしっかりと抱きしめて、何度も何度も私に「ありがとう」と言った。

そんなその子の様子を、私は一体どんな表情で見てたのだろうか。ひとしきり喜んだ後で、ユーイに「どうしたの?」と聞かれたが。

私はその問には答えなかった。

…答える事が出来なかった。

 

私は再びユーイにその場で待つように言うと、そのまま背を向けて港とは反対の方向へと歩き出す。

後ろであの子が何か私に呼びかけた声が聞こえた。その声は必死に私を引き止めようとしているのが私にも伝わってきていた。

 

しかし私はそのまま振り返らず………そして、角を曲がった。

 

 

港へ真っ直ぐ向かってしまえば、私があの子をここへ置いていこうとしている事を直ぐに感付かれてしまうだろう。

何回か角を曲がり、身を潜める。

万が一、感づかれて…舟に張り付かれても、まぁいいだろう。いざとなれば私一人なら泳いでも島へ帰れる。交換した品の半分は

使い物になるだろうが、それでも構わなかった。いざとなれば本来の姿で暫らく回遊生活をしていればいいだけだ。

元はといえばそれが嫌で、一所に落ち着くために人の姿をしていたのだが、この際そんな事はどうでもよかった。

 

町を出て直ぐ開けた丘へ出ると、そこに一本の大きな樹があった。

そこは見晴らしがよく、小さな島とは全く違う景色だった。風の香りも違う…。

こんな風に広い陸に上がる事などめったにない私には、その雰囲気は新鮮だった。小高い丘から川の流れに向かってなだらかなに

下る道。足元に咲く花も、島ではあまり見ない種類だ。

殺伐とした気持ちを追い払いたくて、そこで一度足を止める。

開けた平野に影を作る一本の大きな樹。その傍まで歩みより、何かを感じられないかと、その幹に触れてみた。

 

意外なことに、その幹にあまり生気は感じられなかった…。何処か疲れている。私と同じで長く生きたのからなのか…?

竜としては私はまだ寿命を迎えるような歳ではないのだが、時々そんな事を思う事がある。私の周りでは、同族も、多種族も、

私より先に旅立っていってしまう。

私だけがこの世界に一人取り残されていくようなその感覚が、私の生きる気力を少しずつ蝕んでいくのだ。

その感覚が堪らなく苦しく………そして一種、甘美にさえ感じられる。

 

私はどこかで望んでいる。

早くこの命が終る事を。

 

私は知っている。

憎いはずの人の中にこうして時々身を投じるのは、どこかで自ら「死」を望んでいるからなのだと。

結局、これも自虐的行為の類なのだ。

 

 

…高い空を見上げる。

流れる雲も切れ端程度の、晴れ渡った空。

海の竜としての感覚が、その青い空の遥か遠い先に嵐の兆しを感じるとる。

あと三日…いや、二日後か。たいした嵐じゃなさそうだが…。

 

そう言えば、あの嵐で助かった者が居たとすればこの町あたりに居るかもしれないな…。あの子のことを知っている人物も

居るかもしれない。

まぁ、あの惨状では余り期待は出来ないだろうが。

 

 

空を見上げ、ぼんやりとそんな事を考えているうちに、いつしか時間は過ぎていった。

 

 

 

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奈落|・`)<…

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